「人生の目的」を持つかどうかは寿命に関係する
人生の目的を持っているかどうかで、その後5年の死亡率が大きく変わるという。
ミシガン大学の研究者たちは、1992年にスタートした「50歳以上の被験者7000人の調査結果を分析。
人生に対する文章に対して自分がどう感じるのか評価を行い、「人生の目的」の度合いをスコア化した。このスコアを被験者の回答後5年の死亡率と比較。
結果、人生の目的スコアが低い被験者の死亡する割合が、スコアの高い被験者に比べて2倍も高いことが判明。
スコアの低い被験者は心臓や血管の問題によって死亡していることが多く、この結果は被験者がうつ病であるかなど影響があると考えられる要素を考慮しても変わらなかったとのこと。
幸福や健康のカギとなるのは「自分の人生に意味がある」と感じる事だということはこれまでの研究結果でも明らかとなっている。
日々無意味に生きるよりも、何かのため、誰かのために人生の時間を使いたいと思った。
Gigazine 2019年06月08日 12時00分
数百人の「過去の自分に対するアドバイス」調査
「過去の自分にどんなアドバイスをするべきか?」を系統的に調査することで何が分かってきたか
30歳以上対象で、アンケートは若いころの自分に1つないし3つのアドバイスをするとしたら何を言うか?を問うもの。
調査の結果、「大事な人間関係」「学習の機会」「自分の財産」に関するアドバイスが圧倒的であるという。
また調査で明らかになったアドバイスは「人生で後悔していること」の回答と内容が重複。このような「重要な出来事」は一般的に10~30代の間で起こることが多いことも分かっている。
調査手法や異なる文化によって結果は変わるだろうが、
お金や自己投資、お金では買えない人間関係があると人生が豊かになりやすいと感じた。
Gigazine2019年6月10日20時00分 メモ
地球外生命体の発見は喜べない?
人類は未だ銀河規模の文明と接触したことはなく、人類よりも先の段階に進んでいる地球外生命体を確認できていない。
ここで二つの可能性が考えられる。
一つは、多くの生命体が進化する中で乗り越えることが出来なかった「壁」を、人類だけがクリアしている。
もう一つは、人類よりも先の段階に乗り越えられない「壁」があり、人類よりも進化した生命体はすでに滅亡しているという可能性だ。
二つ目の場合、人類もやがてこの「壁」にぶつかる運命にある。
そして前者の場合、生命の発生から今までどのタイミングで「壁」を乗り越えたのか疑問が残る。
乗り越えた「壁」として考えられるものとして、生命の発生、脳の発達、知性の獲得などがある。
では、これからぶつかるかもしれない「壁」とはどのような場合があるのか。
大災害や戦争レベルではなく、人類よりもはるかに進歩した文明が破壊されてしまうほどの規模になるはずである。
生命体の存在そのものを揺るがすような「壁」とは何かは分からないが、全面核戦争かもしれないし、遺伝子工学によって作られた生物やナノテクノロジーの暴走かもしれない。
結論として、もし地球外生命体が発見されれば、生命の発生や知性の獲得は乗り越えられない「壁」ではなかったという事になり、「壁」はむしろこれから待ち受けている可能性があるという事となるため、喜ばしいものではないと言える。
「神の存在」を数学的に論理展開できるのか
「世界が合理的にデザインされているのは神がいる証拠だ」と、これほどまでに複雑で奇想天外な世界が出来たのには確実に神の意志があると考える人がいる。
このような主張を帰謬法(背理法)と言い、ある考えがいかにおかしい結果になるのかを示して証明することを指す。
これに「世界が合理的にデザインされているのは神がいる証拠だ」という主張を当てはめると、
1、神がいなければ人間が進化できるはずがない
2、人間は進化してきた
3、よって神がいないとは考えづらい
という三段論法が考えられる。
考えを進めるために、神がいるかいないか、それぞれの場合に人間が存在するかしないかを考えた2×2のテーブルを想定する。
「神が存在しないが人間はいる」と考えた場合、人間はいくつもの要因に依存して生まれたことになり、確率はわずかである。
もし「神が存在する」と考えた場合、神が必ず人間を想像するとは限らないが高い確率で人間が誕生する。
そして現に人間が存在している以上、テーブルの「人間が存在しない」部分を排除する。
よって「神は存在し、神により人間は存在している」と考えるのがもっともらしい。
この論理の欠点は「存在か不存在か」の二項対立で仮定していること。また単一の神のほかに複数の神を想定するコミュニティもあるという事である。また可能性の一つとして、シミュレーション仮説も存在する。
重要なのは数字ではなく、「神が複数いるならば、それだけ人間を想像する機会が増える」という論理に同意できるかどうかだと言える。
結論として、神がいることを結論付けることはできない。
「神が存在すると考えたほうがもっともらしい」という論理は、それ以上にもっともらしい「世界はだれかのシミュレーションによるもの」という仮定の論拠を述べていることに他ならないからである。
参照:
虫の音に耳を傾ける文化
虫の音を「声」として認識できるのは日本人とポリネシア人だけだという。
人間の脳は右脳と左脳に分かれている。
右脳は音楽脳とも呼ばれ、音楽や機械音、雑音を処理する。
左脳は言語脳とも呼ばれ、人間の声など論理的知的な処理を受け持つ。
ここで虫の音を西洋人は右脳で聞き、日本人は左脳で受け入れるという。
うまく言えんが、なんか日本人っぽい笑
虫の音に聴き入る文化の例でいえば、
あれ末虫が鳴いている
チンチロチンチロチンチロリン
あれ鈴虫も泣き出した
リンリンリンリンリーンリン
秋の夜長を鳴きとおす
ああおもしろい虫の声
という歌や、
ひとりして しづかにきけば 聞くままに しげくなりゆく むしのこゑかな
明治天皇の御製
として残っている。
また日本語の特徴として擬声語、擬音語が高度に発達しているらしい。小川は「サラサラ」、雨は「シトシト」、風は「ビュウビュウ」といように、自然を声として処理している。
ほんと語彙力が息してないので言葉が出てこんが、風流があって日本はいいなと思うのである。
参考文献
https://news.livedoor.com/lite/article_detail/12520396/
走る不思議
走るとは、自力で移動できる生物または無生物が高速で移動することである。
走ってて不思議に思うことがある。
「なんで今走れてんの?」と。
高校ではバスケ部に入っており、練習メニューに外周があった。学校の周りを走るアレである。
2周目に差し掛かった時、なぜ走れているのかふと疑問に思った。太ももをあげ、もう片方の足で地面を蹴る。この動作をなぜ出来ているのか?
そして自分が進んでいるのではなく、空間が向こうから流れてきてるだけじゃね?と新たな疑問も浮かんでくるから忙しい。
高校の時に独我論というのを知った。自分にとって存在していると確信できるのは己の精神のみであり、その他のあらゆるものの存在や認識は信用ならないという考え方だ。
確かなのは自分だけで、目の前から信用ならない情報が流れてきてるだけだと思ったりした高校時代だった。
なんだこれ。尖りすぎてないか自分。